一)平成十八年八月二十九日、私はS文学館の文芸作品の募集に応じ、
その詩部門にあてて自由詩一編を以て投稿した。 次に掲げる。
自由詩 人生の応援歌
タイトル
しあわせをよび寄せよう
――心の役目――
習作 作詞作曲 長坂強
心には 心には
どんな種類があるのだろう
どんな種類があるのだろう
熱い心 冷たい心
明るい心に 暗い心
まだまだたくさんある筈さ
心には 心には
どんな役目があるのだろう
どんな役目があるのだろう
生きてゆくには明るい心
人と交わる 温か心
まだまだ たくさんある筈さ
しあわせを しあわせを
どんな心が呼ぶのだろう
どんな心がよび寄せる
明るい心 温か心
喜び心に 愛する心
ただひたすらに 愛する心
二)S文学館の文芸作品の募集は、毎年八月一日から八月三十一日までの
期間を以て行われてきた。私自身の応募もこの二〇〇六年の応募で三回目となる。
第一回目は選外、佳作の賞状と盾を頂いている。しかし、今回応募の心情としては、
入選を競うのでなく、参加することに意義ありとして来た。こう言えば、多少ならずキザ
に響くであろうか、実際の心情がそうであった。他に意図があったからである、と言えよう。
この年こそ、作曲に手を伸ばそうとしてきたことに基因する。
一般的に云えば、素人が作曲にまでゆくには、次のようなプロセスを取る。
(1)詩を作る
(2)右の詩を基にして、歌詞を作る
(3)右の歌詞にメロディをつける
(4)右の歌詞とメロディとによって独唱する
(5)右の歌詞とメロディを基にして音符と五線紙とを用いて譜表をつくる
(6)右の歌詞と譜表とに基づいて、この歌曲をひろめる。演奏したり、合唱したりすることができるようになる。
(4)の独唱も結構だ。それだけでも世界が広くなる。けれども(5)の譜表作りができ、
(6)のように演奏され、合唱ができるようになることこそ、作詞家や
愛詩家の望むところではないか。
そのような心情を以て、この年の四月、これに向かってスタートしようとしたが、
ある事情から、これは失敗に終わった。よし、そうであるなら右のこの作品を基に、
これに再度トライしてみよう、――こういう心情が偽らざるところであった。
従って、投稿直後からこの歌詞はよくさまざまに歌いこまれて、メロディ作りに進んでいった。
三)九月という月は、各地、各関係団体などの文芸作品募集の花ざかりの月である。
詠進歌を始め、多くの和歌、詩歌の募集があり九月末日を以て締め切り日とされていた。
月末の一週間連続して、作詞作歌に没頭し、この作業自体からも得るところ多大で
あったが、この間をぬってメロディづくりは進んだ。
四)前記の(1)、(2)、(3)のような投稿とメロディづくりの段階では、未だ「不可能を
可能としようとする試みと営み」の領域とは無縁である。全く関係がない。
しかし、後述するように、ある段階から関係を生ずる。
五)九月二十五日、原宿で“知と心のサロン”が開催された。
この会は隔月に一回程度開催され、集まるもの男女約三十人、研鑽と親睦の
交流を図ることを目的としている。講師の講演を拝聴し、質疑応答。昼食をともに
して雑談。世話人、司会者は例の“江戸しぐさ”の著者であり、研究者である越川禮子氏。
閉会に際しては、何時頃からか、小生のかねての作品、“アウト・プットでゆこう”を
小生のリードで合唱する慣例となってきていたのであるが、この日は“
しあわせをよび寄せよう――心の役目――”を新作発表することに踏み切った。
自作のメロディによって独唱する。
――皆様はシーンと静かに聞き入ってくださっておられた。
小生自身の声音も、ご馳走を頂いた後の為か、順調に出ていた。
歌い終わると、一瞬の静けさがあり、次いで小さな拍手が、
そしてそれが次第、次第に大きくなって、
巻き返る波のような響きに感ぜられた。
――感激であり、感動であった。そして感謝。
この拍手の一連の巻きかえる波は、長く記憶に残る出来事と私には思われた。
このあと、“アウト・プットでゆこう”を合唱し、閉会となった。
六)こうなって来ると、一種の興奮状態。しかもそれが持続する。
少なくともこの“知と心のサロン”の方々とともに歌いたい。
合唱したい。いやそればかりではない。三木会もある。無源会、
十八日会、昭和十四年会もある。小さなサークルで合唱したい。
必要な譜表を早く整えるべきだ。
先年の拙作“アウト・プットでゆこう”のときには、小生の作詞に歌の先生が
作曲をして下さるというご親切を頂いた。しかし、今回は些か事情が異なる。
歌の先生は目下次のコンサートの準備にご多忙であるばかりでなく、
ご高齢のご母堂様の介護、看病をも背負っておられる。今回は無理であろう。
よし、それでは、自分自身でトライしてみるか。ほかにいい方法がありそうもない。
トライしてみよう。
七)、この瞬間、この譜表作成の作業は、今まで無縁であった“不可能の
ひとつを可能にしようとする試みと営み”という領域の中に組み込まれた、
と云ってよいのであろう。何をどうしたらよいか、皆目分からない。
大きくて、がっしりとした、堅牢な壁にさえぎられた。
こういう感じが偽らざるところであった。
夕暮れになって来ると、「このメロディを音符と五線紙とを以て表示する譜表づくりは
やはり素人の私どもには無理なのかもしれない。ああきらめて仕舞うか」、
そんな思いが胸をよぎる。 そのようなとき―――たちまち聞こえて来るのは、
あの歌の一節“生きてゆくには明るい心”だ。 明るく、明るく進め。
この歌が後押しをしてくれる。人生の応援歌。世のため、人々のため。
世の中への応援歌、人様への応援歌が、局面が変わると、たちまち作者である
私自身への応援歌となって後押しをしてくれる。有難いことだ。
そして予想外の不思議な出来事だ。夕方と昼間と。これが繰り返し数日続いてゆく。
そうだ、前途を見つめて明るくゆく。明るい心でゆこう。
九月二十五日の“知と心のサロン”のあの巻き起こった拍手が
自然自分の耳に甦って来る。あの拍手を無駄にしてはならない。
あの拍手に実質的に答えてゆかなければいけない。
無駄にしては、拍手を下さった方々に相済まないではないか。
八)、二、三日が過ぎた。家の二、三の部屋のちらかし(混雑―混乱)を
片付けているとき、偶然、新聞の切り抜きの一つが目に入った。日本経済新聞、
文化面の「私の履歴書」、六月十五日の日付。作曲家、遠藤実氏の筆である。
その記事は、遠藤実氏が若いとき、それまで相当の期間、流しの歌手を務めてきたが、
ある事を契機にその流しの歌手を止め、作曲家を志すこととした経緯が書かれている。
ラッキーにも、そこに明らかに書いてあるではないか、“音符を読めない自分が、
作曲家を志すとは。ドはど、レはれ。ドレミファソラシドを一つ一つギターの弦を指で押しながら確かめていった”と。
遠藤実氏と云えば、名作曲家であり、大作曲家である。そのようなお方でさえ、
当初出発のときには、楷音の一つ一つを確かめるところからスタートしておられるのだ。
全くの初歩から歩み初められたのだ。まして私のごとき初心者が、
いや全くの素人が、初歩から歩み初めなくて何とする。
それに、ここで作曲の対象としていることはたいしたことではない。
自作の詩歌、自作のメロディを一枚の譜表に写す、このようなたった一つの
ことができない筈がない。何らかの道が――現在はそれが判らないとしても――必ずあるに違いない。
こう思って、かつては自分には到底できないことと思い込んで来た譜表づくりに、
明るい心を投げかけて進むことにする。そして実際も、明るい心を持ちつづけた。
世のため、人のためにと謳った人生の応援歌が、いつしか自分のために自分を後押ししてくれる。
この有難さ、この不思議。
九)、そのころ自分の胸の中に一つの想念があった。
そのことは必ず問題解決に役立つことであろうと漠然と考えていた。
音符は二つの機能を持つ 。
1.音符はその形状により、音の長短を表す。
2.音符は五線紙の上下内外の位置に置かれることにより、
即ち、ドレミファソラシドの位置を明示することにより、音(楷音)の高低を表す。
従って、この二つを同時に捉えようとするのでなく、まず1.の音の長短を捉え、
次いで2.の音の高低を捉えることとすれば、メロディの把握はより容易になるであろう、と。
十)、十月二日。さらに二、三日が経過した朝のこと。
起床。“一つの小節毎。一つのフレーズ毎”と云いながら起床していた。
これも有難いこと、不思議なことの一つであった。
この言葉の意味するところは次のようだ。
詩や歌の全体を考えているから、たいそうなことなのだ。
音符を五線紙の上に当てはめていく譜表づくり。
一つの小節を把えて、その小節を譜表に落としてゆく。
音符を用いて。
一つのフレーズを把えて、そのフレーズだけを譜表に落としてゆく。
音符を用いて。
もう少し進めてゆけば“一音対一音符の対応”なのだ。
“しあわせを”の“し”という一つの音を一つの音符で表し、
これを五線紙の上に置く。それだけのことなのだよ。――こう云っているのだ。
この起きがけの言葉によって、“譜表づくり”について事前に考究してゆく事柄は、
全部が明らかとなったように想われた。前記の“九)”に述べたことと併せて。
気分が全く楽になった。十月八日(日)の砧での“シャンソン・コンサート”も
楽な気分で出席、鑑賞することができた。
十一)、あとは、譜表づくりの作業が目的を着実に果たすことができるよう、
実行の確実性を確保することであろう。
1.楽器は、何か一種は必要ではないか、木琴はどうか。こういうアドバイスも
頂いた。これも目下品選び中である。好ましい木琴に仲々出会わない。
2.テープ・レコーダーで代用できないか。
3.二分音符、四分音符、八分音符。
(ア)二分音符は“時計”の歌のボーンボーン
(イ)四分音符は、荒城の月、さくら。「荒城の月」は五十ケの音符中、六十%が四分音符である。
(ウ)八分音符は証城時の狸囃子、シャボン玉。以上は、音の長短の耳を訓練するために。
十二)、このようなプロセスの中で十一月の六日、東京長高会を迎えた。
全くこの譜表づくりにはまっていたので、夢中で喋ったことは、何らかの意味で、
譜表づくりに関連していたことと思われる。
十三)、十二月十八日と十九日の両日を以て、この譜表づくりは一応の完成を見た。
全体が概成した。譜表は別掲のとおりである。
現段階において、一応、未定稿としている。なお補い、修正の必要が生じることに備えている。
作業それ自体はきわめてスムーズに行われたことを附言したい。
十四)、作曲ができるようになったのか、できるようになったとすると―――
長中三十七回と云えば、それだけで暦年の年齢を推定するに苦労は要らない。
“米寿成る心身ともに健やかな 少年のごと生きてゆかばや”
“好奇心、少年のごと旺盛に 感性も、なお言動も”
以上二首を以て自らを律し、かつ、励ます言葉としてきた昨今ではあるが、前述のごとく
(3)歌詞にメロディを附け、
(5)上の歌詞とメロディを基に、音符と五線紙を以て譜表をつくる
この二つのことを併せて作曲することだとするなら、私のこの作業は作曲を果たしたことになる。
そうだ。作曲ができたのだ、できるようになったのだ。そうだとすると、
新年の展望は従前のものとは、その趣なり、内容なりに多少ならず異なるものとなって
来るに違いない。詩歌の創作、歌曲の創造の面に直接的にそれが現れてくることは
容易に予見される。しかし、そればかりではない。この譜表づくりの延長に生じてくるものとして、
1.
この“幸せを呼び寄せよう”の歌を広めてゆくこと
2.
この歌の持つ“幸せを呼び寄せよう”という考え方を広めてゆくこと
3.
この歌の譜表づくりを契機にして得られた作曲の技法を高齢者や子供たち、
青少年に広めてゆくこと ――このような作曲の技法は、もうとっくの昔に音楽の
世界では確立されていることであるのかも知れない――でも、作曲の技法を広めることは、
それだけ音楽を楽しむ機会を深くする方法の一つであるから、世の中をもっと楽しく、
そして、もっと健全に過ごしてゆくのに役立つ筈だ。
4.
不可能の一つを可能にしようとする試みと営み――そして、少年たちは、
その成長の過程のなかで、「不可能の一つを可能にしようとする試みとみ」というものに、
必ず一回以上直面するに違いない。そのときの対応の手段・方法も、
この譜表づくりを通して、逐次明確になってきたのではないだろうか。
今後のために、現在は、未定稿として掲げておくこととしよう。
ア.生きてゆくには明るい心
イ.人と交わる温か心
ウ.“足して二で割る”方法を含む加減乗除の算法四則。
エ.適切なシュミレーションを設け試行すること。
オ.一対一の対応の原則
以上のごとく、二〇〇六年を回顧し、二〇〇七年に向かって来た。
本稿を終わるに当たり、新年の前方への展開を凛として見渡しつつ、
確実に歩みを進めてゆくことを念願と致したい。